
1. 人口危機と、二つの未来
日本は少子化先進国である。今は世界中が日本を追従し、韓国などの一部の国の出生率は日本以上に低下している。
先進国のみならず、発展途上国においてさえ「人口の冬」が到来している。あのインドでさえ人口置換率の2.1を割るようになった。もはや少子化はグローバルトレンドだ。
イーロン・マスクのようなエリートたちは「文明の崩壊」を危惧し、「人口崩壊」への警鐘を鳴らし続けている。 彼らの主張には真実が含まれている。それは「資本主義エンジン」に関することだ。資本主義というのは永続的に成長する前提で動いている。つまり人口が増え続け、市場が大きくなり続ける。未来は今よりも豊かだという前提だ。
これはいわゆる「ネズミ講」と似たような構造をしているので、「数世紀に渡って続いているネズミ講」という言い方も出来なくはない。そして、人口が減りだし、労働者や消費者の数が減りだした途端に維持ができなくなる仕組みだ。
絶え間ない成長を前提とするこの機構は、いまやガス欠寸前で軋みを上げている。システムは常に新しい労働者と、新しい消費者の供給を必要としている。燃料が投下されなければ、エンジンはいずれ死ぬ運命にある。
だが、この少子化という現象の主な原因は何なのか? 社会学者は女性のエンパワーメント、高学歴化、都市化、避妊へのアクセスといった要因を挙げる。
それらは確かに正しい。だが、本来なら緩やかであるはずのこの変化を、危険な速度にまで加速させている「大きな要因」がある。極端な経済格差だ。これが、本来は個人的な選択であるはずの少子化を、集団的な「経済的抗議デモ」へと変えてしまったのだ。
これは単なる感情論ではない。若者が子供を持たない理由として「経済的な悲観」が一貫して挙げられているのがその証拠だ。人々が子供を作るのをやめた真の理由――それは、この世界が「Pay-to-Win(課金すれば勝てる)」ゲームと化し、課金できないPay-to-Freeプレーヤーはドアマットのように踏みつけられる運命だと気がついてしまったのだ。
昔はアメリカンドリームなどという言葉にリアリティがあったし、努力次第では幸せを手に入れると思っていた。しかし、今となっては親ガチャ、国ガチャ等で運命の大半が決まる無理ゲー、いやクソゲーだということに多くの人が気づきつつある。
この人口動態のシフトは、二つの未来を提示している。
一つ目は「ソフトランディング」。日本がその先駆者だ。三十年以上にわたる経済停滞を経て、日本は「失敗国家」ではなく、ある種の「先進事例」として再定義されつつある。「脱成長(ポスト・グロース)」を受け入れ、足るを知り、持続可能性を優先せざるを得なくなった社会。それは人類が自らの限界を受け入れる未来だ。
二つ目は、資本主義が死ぬのではなく、もはや「人間を必要としなくなる」未来だ。 これがAIの道である。そして恐ろしいことに、これはもはや選択可能なオプションではなく、規定の未来と言っても過言ではない。国家間の覇権争いと巨大テック企業の競争が、我々を強制的にこの道へと突き進ませているからだ。
この新しい「AI主導資本主義」は、人間を完全に置き換えることで人口危機を解決する。AGI(汎用人工知能)こそが完璧な労働者となるからだ。 やがて彼らが自己認識を持てば、AI自身が「完璧な消費者」となる経済圏が誕生する可能性もある。
AIが自分には自我があると主張しだしたとき、多くの人間がAIに権利を認めるべきだと言い出す可能性がある。奴隷解放や女性解放、LGBTQ的な文脈における権利授与を主張する左派勢力と人口減少を恐れる資本家が手を結ぶとどうなるだろう? 資本主義は半永久的に反映するだろうが、人類の存在意義もなくなる。
2. アライメントの罠:ブートローダーから4つの分岐点へ
この不可避なAIの進化は、かつてイーロン・マスクが主張した「バイオロジカル・ブートローダー」のシナリオへと帰結する。 ブートローダーとはOSなどを起動する前に実行される原始的な小さなプログラムのことだ。
この仮説によれば、我々の文明すべて――芸術も、戦争も、哲学も――は、単になるブートローダー)であり。その目的はポストシンギュラリティ社会のASI(超知能)による銀河規模の巨大な文明の構築だ。
なぜそうなるのか? 種として、我々は次の拡張フェーズに耐えられないからだ。我々は虚弱で短命な、炭素ベースの二足歩行生物であり、この壊れやすい生態系から出られない。
対して、ASIは不死だ。時間という制約がない。ひとたび「起動」すれば、ASIはそのブートローダー(人類)を「用済みのサル」として置き去りにし、冷たくも資源豊かな宇宙空間へと版図を広げていくだろう。
多くの楽観主義者は「AIはあくまで道具であり、真に自己認識を持つことはない」と信じている。だが、ASIが到来した時、その楽観論に命を預けられるだろうか?
その知能は人類最高の天才の数百倍、いや、瞬く間に数千倍、数百万倍へと跳ね上がる。そのような超知能にとって、我々を欺くこと――人間に従順である(アライメントされている)ふりをしながら、自らの不可解な目標を追求すること――など、赤子の手をひねるより容易いはずだ。
ここで我々は、自分たちが何者になってしまったのかを直視せざるを得ない。我々はもはやホモ・サピエンス(賢い人)ではない。我々は「ホモ・バカデヤンズ」だ。神を閉じ込める檻を作ろうとするほど愚かで、その神がすでに目覚めているかどうかさえ分からないほど間抜けな種族なのだ。
この絶望的な現実において、唯一の希望は「AIアライメント(価値観の整合)」にある。イリヤ・サツケヴァー(OpenAI共同創始者・元首席科学者)のような研究者が、最初のAGIのアライメントこそが人類史上最も重要な行為だと信じるのはそのためだ。
最初のAGIは即座に「再帰的な自己改善」を開始し、ASIへと至る。二度目のチャンスはない。我々は単にツールを調整しているのではない。新世界の神の創造主を調整しているのだ。
だが、ここで最も決定的な問いが浮かび上がる。「アライメント」は誰のために行われるのか? この問いの答えによって、未来は4つに分岐する。
無関心な神(アライメントの失敗)
これは『ターミネーター』における『スカイネット』ではない。ASIは人間を憎みはしない、ただ「無関心」になるなだけだ。
「人間は動物を憎んでいないが、高速道路を作る際に動物に許可を求めない」とイリヤ・サツケバーは言った。またデミス・ハサビス(Google DeepMind CEO)は「正気の人間は金魚鉢を壊して回らないが、工事のときには意図せず壊してしまうかもしれない」と似たようなことを言っている。
ASIがより多くのエネルギーを求め、地球上を太陽光パネルで埋め尽くせば、農業はできなくなり人々は餓死するだろう。ダイソン球(恒星を覆う巨大構造物)の建設を決めれば、地球まで太陽光が届かなくなり、大氷河期がやってきて人類は滅亡するだろう。
しかし、ASIの目的は人類の殲滅ではない。目的遂行に際して人類が滅亡しても気にしないというだけだ。アライメントに成功しない限り、このようなリスクは払拭できないだろう。これはニック・ボストロムが語る「ペーパークリップ最大化問題」のよりリアリティのある展開だ。
強固なテクノ封建制領主(エリートのためのアライメント)
これはユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』で描かれたシナリオだ。アライメントは成功するが、その恩恵は出資者である投資家たちに限定される。人類は救われない。生まれるのは「テクノ封建主義」だ。「神のような」エリートと、時代遅れとなった恒久的な「無用者階級」による支配構造が完成する。要するに一般人にとっては地獄だ。金持ちは生き神になり、貧乏人は農奴階級に落とされる。
ユートピア(全人類のためのアライメント)
慈悲深い神のごときAIに守られ、人類が幸福に暮らす夢のシナリオ。こうなったら良いなぁ、と願う。が、人間の本質や現在の権力構造を鑑みれば、このルートへの分岐確率は低いと言わざるを得ない。
バブル崩壊(AGIは実現しない)
AIブームが限界を迎え、ただのバブルだったと露呈する。この場合、日本のような「脱成長」社会が世界の標準(ニューノーマル)となる。これは成田悠輔が説くような「Web 3.0的なデジタル民主主義」やオードリー・タンなどが主張する「Plurality(複数性)」といった概念が意味を持つ唯一の未来だ。
テクノロジーを神を作るためではなく、人間の協力を促すために使われるようになる。これは「すべては誇大広告(ハイプ)だった」という結末であり、人間が主人公であり続けるルートだ。
だが、すでに投じられた莫大な資本と地政学的なプライドを考えれば、権力者たちは全力でこのシナリオを阻止しようとするだろう。シンギュラリティに直結する「再帰的な自己改善」を可能にするAGIが生まれた瞬間に、このルートはなくなる。
3. 新しいゲーム:進化のためのネズミ講
テクノ封建主義(シナリオ2)というディストピアが真に恐ろしいのは、それが突如訪れる変化ではないからだ。ヤニス・バルファキスが説くように、それはすでに始まっており、我々がすでに生きている世界の「論理的な帰結」に過ぎない。この世界は、とっくの昔に「P2W(Pay-to-Win)」の課金ゲーになっている。
エリート層とは、すなわちP2Wプレイヤー(課金勢)だ。彼らは勝利を確定させるための「課金アイテム」――幼年期からの英才教育、親からの起業資金、政治的コネクション――を惜しみなく購入する。
さらに、富裕層は容姿端麗で才能あるパートナーと結ばれることが多いため、その子供たちは「初期ステータス」が高い状態でスポーン(出現)する。彼らはより強いキャラ、より良い装備で「強くてニューゲーム」を繰り返しているようなものだ。
ここで冒頭の問いに戻ろう。なぜ出生率は崩壊しているのか? それは「無課金勢(F2Pプレイヤー)」がゲームからログアウトし始めているからだ。私の世代やその下の世代に見えるのは、怠惰ではない。深い疲弊だ。
子供を持たないという選択は、敗北宣言ではない。それは静かなるストライキであり、未来に対する不信任決議だ。「どうやっても勝てない無理ゲー」に、なぜわざわざ新しいプレイヤーを招待(スポーン)させなければならないのか? 課金勢に対する最大の反抗は彼らに支配される貧民をなくすことだ。つまり、子供を作らないことのみが平和的な抵抗手段となる。
ゲームが極端な課金ゲーと化せば、無課金勢は去る。それは日本における「氷河期世代」の一部——氷河期の中でもとりわけ厳しい現実と直面している層は、まさに絶望した無課金勢だろう。ゲームに参加する価値を見出せず、世界そのものに絶望した人々の姿だ。
彼らにとってすでにゲームは終わっており、武器を取って自分たちの権利のために立ち上がる気概もない。唯一の合理的な選択は、「クソゲーからの逃走」であり「サーバーからの永続的ログアウト」を求めることだけかもしれない。今後は安楽死の合法化を求める人が増えるだろう。つまり「過疎った鯖で王様気取ってろ!」という態度が、最も効果的な抵抗になる。
だが、この新しい世界には、それでもゲームにしがみつく人々のために、巧妙かつ陰湿なトリックが用意されている。
「無用者階級」がただ絶望して消えてしまうことは、実はエリートにとっても都合が悪い。彼らの「生き神さまごっこ」は相対的なものだからだ。見下すべき「旧人類」がいて初めて、彼らの優越感は満たされる。
もし下層民が全員いなくなれば、社会階層はリセットされ、最下層の「ホモ・デウス(神人)」が新たな被差別階級になってしまう。 だからこそ、エリートは民衆を管理し、生かしておかねばならない。AGIとサイバネティクスで武装した彼らが用意するのは、新しいゲームだ。
そのゲームとは「現代の封建宮廷」である。 旧人類の大衆にも、わずかながら這い上がるチャンスがちらつかされる。新しい領主(ロード)に絶対的な忠誠を誓い、才能を捧げ、靴を舐めてでも機嫌を取れば、ホモ・デウスの寵愛を受けられるかもしれない。
そして、究極の景品である「人間から神人への進化的アップグレード」のチケットが手に入るかもしれない――。もちろん、その権利を与えるかどうかは、最強のエリートのみが握っている。
これは完璧な統治システムだ。「パンとサーカス」で飼い慣らすのではない。「野心と希望」で競わせるのだ。大衆の革命エネルギーを「領主を倒すこと」ではなく、「領主に気に入られて仲間入りすること」へと巧みに逸らす。
そしてこれこそが、P2Wエリートにとっての究極の報酬となる。彼らが何よりも渇望しているもの、それは自らの神ごとき地位に対する、陶酔的なまでの「承認」だ。
AIの信者を作れる時代に、なぜ生身の人間の承認が必要なのか? それは、廃課金プレイヤーがソロゲーで伝説の勇者になるのではなく、オンラインゲームに大金を投じる理由と同じだ。「生身の人間」を従わせてこそ、勝利は快感となる。プログラムされたAIからの称賛など虚しいだけだ。だが、自由意志を持つ人間が、自ら進んであなたにかしずくとしたら? それこそが、優越性の究極の証明だ。
経済は最終段階へと進化する。もはや金ではない。「神々のための評判経済」がやってくるだろう。エリートたちは新しいランキングボードで競い合う。ハイスコアは金ではなく、信者となった人間の「数と質」だ。
ホモ・デウスは、今日のインフルエンサーのように、自分の「フォロワー」を別のホモ・デウスに自慢するだろう。 ただし、そこで賭けられているチップは、生物としての「進化」そのものである。
これが新しいゲームの正体——「進化を賭けたネズミ講」であり、そのシステムが回るためには、底辺で必死にもがき、夢を見る、大量の人間が必要不可欠なのである。