先日箱根にあるポーラ美術館に行ってきました。実はこの美術館の存在を知ったのは割と最近なのですが、2002年にオープンしたそうです。21世紀になってから起こった出来事は「割と最近」という感覚でうけとめてしまいがちですが、よくよく考えてみるともう14年近く経っています。ちかごろは「最近」という感覚がかなりいい加減になってしまいました。どうも自分が30歳になってから起こったことはすべて「最近」の一言で済ませてしまっているような気がします。ひょっとしたらあの頃から精神的にあまり成長していないのが原因かもしれません。
ポーラ美術館、なかなか良かったです。ルノアールやモネなどの西洋絵画が中心のコレクションでしたが、エミール・ガレなどの西洋ガラス工芸や東洋の陶磁器なども印象的でした。
美術館を訪れたのは土曜日でしたが、あまり混雑していませんでした。この美術館で一番有名な絵画はおそらくルノアールの『レース帽子の少女』なのでしょうが、5分ぐらい独占して、近づいたり離れたりして鑑賞できました。個人的にはルノアールはちょっと離れてみた方が良いなと思いましたが、混んでいる美術館では不可能ですからね。
先日、上野の東京都美術館で若冲生誕300年記念展が開催されました。ちょうど母の命日が初日だったので、お墓参りも兼ねて東京(正確に言うとお墓は川口市ですが)に戻ってみたのですが、初日でしかも金曜日だというのにすでに人がいっぱいでじっくりと鑑賞するのはとてもではないけど不可能でした。それでもまだだいぶましな方だったようで、その日以降はほぼ常に入場制限が掛かって入場するまで数時間待たされるようになったようです。京都の国立美術館で狩野派を観たときにも思いましたが、こういう大々的な展覧会で芸術品を鑑賞するのはもう無理ですね。とりあえず本物を観たという満足感以外は得られません。なにしろ少子高齢化が著しい社会ですから、平日の昼間に美術館を訪れても混んでることが多い。これからは各美術館のコレクションを調べて常設展狙いで行こうと思います。
箱根から富士吉田に帰る途中で蛍を撮影して帰ることにしました。ここはマイナーな撮影スポットだと思っていたのですが、驚いたことに次から次へとカメラマンがやってきて最終的には20人ぐらいまで増えていました。お約束のフラッシュをたいて蛍を撮ろうとするような困った人も現れ、なかなか困難な撮影でしたが、この日集まっていたのはわりと平和的な人が多かったので雰囲気は悪くなかったです。だけれどもここで撮影することはもうないかな。きっと来年はさらに増えているでしょう。
富士山撮影というか日本の風景写真の撮影は新時代に突入しているような気がします。有名スポットはもちろんマイナースポットも日に日に混雑していきます。SNSで写真を公開する時代になって、撮影場所はすぐに大勢の人に知られてしまうようになりました。GPSデータ付きで撮影場所を公開するようなウェブサイトまであります。確かにそういうサイトは初心者に便利なんでしょうが、人が集まることによって不可避的にマナーが悪い人も紛れ込んでしまうので、付帯的に発生するゴミの問題や小競り合いなどのトラブルについてもすこし考えてもらいたいものです。そのうち刃傷沙汰が起こるんじゃないの? と本気で心配になることがたまにあります。
更に先ほども言ったように少子高齢化が進んでいるので平日に行っても撮影スポットが空いているとは限りません。ただしみんな季節の旬な物(田貫湖のダイヤモンド富士とか忠霊塔の桜とか)を撮りたがるので一カ所に集まる傾向があります。わたしの知人は富士山を撮っている人が多いので、SNSのストリームには同じ日に同じ場所で撮った同じ構図の写真がわんさかとアップロードされてきます。そういう状況でオリジナリティを維持するというのはなかなか大変です。逆に言えば、あえて季節の旬な物に背を向ければ、混雑に悩まされることはなさそうです。あとはそもそも行くのが大変な場所などですね。南アルプスとか。
つくづく思うのは日本は人が多すぎるということ。少子高齢化が叫ばれていますし、実際に急激な人口構成の変化は大事件かもしれません。わたしには子供がいないので少子高齢化の話題になると肩身が狭い思いをするのが常です。たしかに日本経済の将来を中心に据えた価値観では子供を作らないのは悪徳なのかもしれないけれど、グローバルな観点で言えばホモサピエンスの個体数は明らかに多すぎるのだから子供を作らないことはむしろ美徳なんじゃないの? などと自己正当化したくなるときもありますが、たんに子供が欲しくないだけです。ええ。ま、でも日本列島に一億人以上の人間が住むようになったのは1966年以降、長い日本史のなかではほんの一時期に過ぎません。今の半分ぐらいでちょうどいいような気がします。問題は多数の老人を若い世代が支えなければならないということなのでしょうが、無理して支えないでいいんじゃないでしょうか。
尊厳死とか安楽死を真剣に考えた方が良い時期にきていますよね。若い世代に過大な負担を掛けて延命治療の財源を得るなんてばかげている。わたしの母親は膵臓がんで治る見込みがまったくなかったので、辛いから早く殺してくれと何回も懇願していましたが、殺人幇助になってしまうので医師としてもどうしようもありません。激痛に苦しみながら1ヶ月間長生きすることになんの意味があるのだろう? という疑問を振り払うことはできませんでした。私ももう治る見込みがないんだったら楽に死なせて欲しいです。死ぬのは仕方ないけど痛かったり苦しかったりするのは嫌だ、って思いません? 法整備ができている海外に行って死ぬという選択肢もありかもしれませんね。それまでに悔いがないようにやりたいことをすべてやっておきたいです。
ちなみにこの写真を撮影した日(6月11日)はわたしの45回目の誕生日でした。総じて言えばなかなか良い誕生日だったと思います。祝ってくれたみなさんどうもありがとうございます。
※WordPressをサブディレクトリ型で多言語化する作業に伴い、2019年12月26日に日本語部分だけを切り離して投稿。